緋色の刻印 第二話


 ぬかるんだ道を傘も差さずに歩いたせいで、三人は濡れて泥だらけだった。

おそらく軍服を脱いで絞ればかなりの水量になるだろう。

ただでさえ重い服が水を含み更に重く圧し掛かってくる。

冷たい雨に体温は奪われていき、すでに手足の末端の神経は麻痺していた。

顔には疲労と憔悴の色が浮かんでいるだろう。

そんな三人の姿に男は眉を寄せる。

雨の中、いきなり尋ねてきたのが軍人では驚きもするだろう。

 もちろん彼を驚かすことが目的ではない。

草加は今の状況をやんわりした口調で説明した。

「すまないが、宿をお借りできないだろうか?先ほどの落雷で道が寸断されてしまってね」

この雨では戻るにも戻れない。

そう伝えると彼は困まったように俯いた。

「大変なのはお察し致します」

「では」

「ですが、お入りいただく訳にはいきません」

 男はきっぱりとそういうと、深々と頭を下げて扉を閉めようする。滝は扉が閉まる寸でのところで扉の間に足を挟んだ。

「ちょっ、ちょっと待て」

 ここで「泊めません」と言われて、はいそうですかとは言えない。言えるはずがない。

 雷は収まったが、雨足は激しさを増すばかりだ。

 そのせいか先ほどから妙に悪寒が走る。

(風邪でも引いただろうか?)

「そう言ってくれるな」

 一般人に情けない所を見せるのは本意ではないが、この場合は致し方ない。今、放り出されては自分達の命に関る。

 それに何より疲れていた。

「頼む。明日夜が明けて雨が止めばすぐに出て行く」

 部下も同様に頭を下げる。

 藁にもすがる気持ちだった。

「それとも死ねと言うのか?」

 高圧的にそういえば、男はポリポリと頭を掻いた。

 顔には困惑の表情が浮かんでいる。

 もう一押しだと滝は思った。

 軍人政権が君臨しているこの時代――――。

 一般人が軍人に逆らうと「非国民」としての扱いを受ける。

 明らかに軍人である自分達を泊められないというからには余程のことがあるのだろう。

 だが、今の自分達には本当に余裕がなかった。

 これで頼んでダメなら力にものを言わせるしかない。

 そう思ったのは部下も同じだったようで、困惑した男を締め上げようと胸倉に手を伸ばす。
 しかし、その手を草加が止めた。

 部下の手首を握ったまま、草加は男に向き直るとニコリと笑った。

「手荒な真似はしたくありません。私たちはただ一夜の宿をお借りしたいだけなのですから」

 真っ直ぐに男の瞳を見てそう言う。

 優しい口調だったが、その言葉に抗い難いものを感じて男はますます困ったように頭を掻いた。

 確かにこの雨と雷の中で野宿をするのは不可能だ。

 軍人達の話では雷で倒れた木が道を塞いでいるらしいし、この山の中では無線で応援を呼ぶことも不可能だ。

 それに――――。

「電話があるのなら。明日の朝一番に迎えに来させる」

「いや、この家には電話も車もない」

 だから彼らには歩いて下山してもらわねばならないのだ。

 どちらが面倒だろうと男は思った。

 このまま彼らには――――のと、それとも何事もなかったように山を降りてもらうのと。

 いずれにしても彼らがいなくなることでここを見つけられても面倒だし、できれば人が死ぬのは見たくない。

(仕方ないか……)

 男はそう思い諦めた。

「車もない?」

 男の言葉に滝は首を傾けた。

 この山の中で生活するのに車がないのは不便だろうと思う。

「ああ。裏に畑があるから生活するのに山を降りる必要がないんです」

 訝しげに自分を見る滝に男はそう説明した。

「分かりました。一晩だけ宿をお貸し致しましょう。ただしこちらとしてもお願いがございます」

 絶対に守ると約束してくれるのであれば宿を貸すという男に三人は大きく頷いた。

 正直、寒さと疲れでかなり限界だったのだ。

 一分でも一秒でも早く屋根のある所で一息つきたい。

 それが適うならば多少の窮屈も我慢しよう。

「では部屋をご用意致します。寒いと思いますが少しだけそこでお待ち下さい」

 男はそう言うと扉を閉めて行ってしまった。

 玄関の軒下で雨を凌ぎながら三人は男が戻り、扉が開かれるのを待った。

 せめて玄関で待たせてくれれば良いのにと思ったが、無理を行って泊めてもらう立場だ。

 部下は先ほどから憤りを露にしているが、今は怒りよりも疲労の方が大きく、早く温かい場所で休みたいと
そればかり思っていた。

 もういい加減濡れた軍服に体の芯まで冷えて、意識が朦朧としてくる。

 普段から鍛錬していても、寒さと疲労には勝てるはずもなく……。

 このままあの男が扉を開かなければ、朝には玄関先に死体が三つ並んでいることになるだろうと滝はぼんやり
とした頭で考えていた。

(いや、まだ死ぬわけにはいかないのだ)

 自分にはまだしなくてはならないことがある。

 戦場でもないこんな所で死ぬわけにはいかない。

(俺はこんな所で終る男ではない)

 もうしばらく待って男が来なければ、草加に止められようと強行するしかないと思った。

 五分ほどして再び扉が開いた。

 男に屋敷の中へと案内される。入って直ぐ吹き抜けの広い玄関があり中央に二階へと続く階段がある。男は何
も言わず階段を登った。三人も後を追う。

 男はどうやら足が不自由なようだった。

 右足を引きずりながら階段を上へと登っていく。

 なるほどと滝は思った。

 今のご時勢、男くらいの歳の者は大半が徴兵に応じ軍にいるのが普通である。

 残っているのは兵として戦争に行ったものの重度の怪我をしたものか、生まれつき身体に問題のある者くらいだ。

 跡継ぎ問題が浮上してからは長男のみ戦場から帰還することができるようになったらしいが、それは一握りの権力
のある家だけの話で一般には全く浸透していない。

 おそらく男は戦争で足を悪くしたのだろうと滝は予想した。

だが、それを男に尋ねることはしない。

何故なら男が提示した一つめの約束が「何も聞かないこと」だったからだ。男から話すこと以外、何も聞かない。
詮索めいたことは一切しない。

その条件を聞いて、足以外にも何かあるのだろうかと思ったが三人は何も聞かなかった。

男は三人を二階の階段を上がって右端の部屋に案内した。それぞれ一人一部屋ずつ使用して良いとのことで、部屋
にはそれぞれ一人用のベッドが設置されていた。

「部屋を出て階段の向こう側には湯殿と厠があります。湯ははってあるので自由に使ってもらって結構です。着替え
も部屋に用意してあります。来客なんてないので簡単な浴衣だけど使って下さい。それでもう二つ目ですが……」

 二つ目の約束はこの階から移動しない。厠と風呂以外は部屋から出ないこと。

「台所は一階だけど食事は部屋までお持ちします。」

「助かるけど、大変じゃないかい?」

草加は男の足に視線を向けてそう尋ねた。

男は「ああ」と呟く。

やはり草加も気づいていたかと滝は思った。

こと観察にいたっては草加の右に出るものはいない。何を考えているのか掴みきれないやつではあったが、頭は切れる。
食えない奴だ。

「大丈夫です。少し引きずりますが普段は痛みはありませんから」

 男は苦笑いを浮かべながらそう答えた。

「分かった。それで三つ目は?」

 滝が尋ねると男は少し瞳を伏せて―――――――。

「雨が止んだら早々に立ち去って下さい」

 そう言うと頭を小さく下げて三人に背を向けた。

 階段を降りようとした男を草加が呼び止める。

「これだけ良いですか?」

「何でしょう」

 男は怪訝な眼差しを草加に向ける。

「あなたは?」

「一階におります。」

「いや、そうではなくて貴方の名前は?」

 男は草加の言葉に驚いたように目を見開いた。

 そういえばお互いに名前すら明かしていないことに滝も部下も気づいていなかった。

「私は海軍少佐の草加です。こちらは海軍中佐の滝参謀それから西本少尉」

 草加に紹介され西本が慌てて敬礼する。

「貴方は?」

 改めて草加は彼の名前を尋ねた。そのくらい聞いても良いでしょうと言わんばかりの草加の目に男は困ったように
顔を歪ませた。

「俺は…康平と呼んで下さい。亡くなった主よりこの屋敷を預かっております。何か用がある時は吹き抜けから
呼んで下さい」

 康平と名乗った男はそう言うと小さく頭を下げて階段を降りて行った。


一話

三話に続く