御注意:松菊や栗菊が一番好きだと仰る方には、
あまりお勧め出来ません。引き返すなら、ぜひ今の内に。
思いっきり松栗ですので、覚悟して御覧下さい。
≪傾向≫ ほんのり三羽っぽいかも?…な松栗・シリアス・ほんのりH
■ 迷いの森 尾栗編
「ここに来るようだな……騒ぎになるぞ」
そう言った尾栗の声は固く、
親友の帰還を喜んでばかりはいられない現状を憂う響きがあった。
けれど同時に、それには、
もう一人の親友の裁量を試す意味合いもあった。
菊池が持ち場を離れぬようと通達させるのを横目に見ながら、
尾栗はその命を無視するように艦橋を後にした。
行動を制限した筈の菊池も、歩き去る背に何の言葉も掛けない。
それは、尾栗の行動を黙認するという、
菊池なりの不器用な意思表示だったのかもしれない。
廊下を歩きながら、尾栗は菊池の心境を思った。
選択は三つだった。
一つめは、嵐の中で彼らを放置すること、
二つめは、日本海軍へとその身柄を移すこと、
三つめは、この艦への乗艦を許すこと。
艦をまとめるためには、菊池側の人間から見ると、
彼らの存在は忌々しいものであり、
治安を守るには、一つ目から順に確実な方法だと言えた。
しかし、彼らの命の保障と言う観点では、その順は逆になる。
無難と言うならば、彼らの救出を海軍に依頼するのが一番いい。
だが、最も不利なのは三つめの選択だと知りながら、
それを選んだ菊池の心境を…その苦渋を思うと、
尾栗はどうにもやるせなかった。
日本海軍…つまりは草加や滝の手の内へと、
角松を引き渡すことの出来ない、菊池の偽らざる想い。
その想いと今の立場の狭間で、
どれほどの苦渋を味わっていることか…。
もう、これ以上、諍い合う二人を見たくないと願うのは、
今や二人の親友である尾栗ばかりではないだろう。
前方から現れた、ひと際大きな男の姿に尾栗は目を見開く。
間違いなくそれは、尾栗が長らくその帰還を待ち続けた男のものだ。
力強く歩を進めるその姿に、緊張した面持ちだった尾栗の口元が、
自然と笑みが綻んだ。
「元気そうで安心した」
そう言葉を掛けて来た親友の、どんな目に遭って来たのか…、
いやに野性味の増した顔になりながらも、その変わらない様子に、
思わず口元が緩む。
尾栗が同じ思いだったことを伝えると、
角松のほうも少しだけ笑みを浮かべた。
しかし、すぐさま顔を引き締め、
尾栗の脇を抜けて、艦橋へと赴く角松の背を見詰めながら、
その意図を悟って尾栗の笑みは更に深くなる。
角松は、この艦に混乱を招くために帰って来たわけではない。
一瞬でもそのことを疑った自分を恥じるように、
尾栗はしばらくその場で立ち尽くしていたが、
小さくなってゆく背中を追うために、
艦橋に向かって、もと来た道を遡って行った。
菊池と角松の邂逅は、驚くほどに穏やかなものだった。
言葉の中に、綱渡りのような危ういニュアンスを含ませながらも、
表面上のそれはひどく穏やかで、外の嵐とは対照的だった。
オブザーバーであるという定義を認め合った双方は、
多少の余韻を残しつつも、あっけないほど素早く会話を終え、
角松は早々に艦橋を後にした。
残された乗員達は、皆、複雑な面持ちで任務を続行している。
航海長の尾栗は再び姿を眩ませたまま、未だ帰って来ないし、
菊池もそれを咎めない。
水面下で蠢く何かを、その肌で感じながらも、
遂行するべき任務に身を委ねるしか道のない乗員達は、
嵐の中をひとり進むこの艦に、己の今ある姿を重ねて嘆息した。
「しばらくは、他の三人との接触も禁じられるそうだ」
艦橋から出た角松は、苛立ちを滲ませる桐野に案内されて、
己が軟禁されるという部屋に足を踏み入れたが、
その直後、訪ねて来た尾栗に対し、苦笑交じりでそう言った。
「まさか、ドンガメに乗って現れるとは思わなかったぜ」
「この時代の潜水艦は正直キツイな。艦長以下乗員達を尊敬する」
ドアの外に見張りが立ててあったが、尾栗は構わず入室した。
今頃、菊池のコバンザメによって報告がもたらされているだろうが、
当の菊池が黙認しているのだから、心配は要らない。
「あんなこと言って良かったのか?」
「あんなこと?」
「オブザーバーでいいってやつ」
難しい顔をする尾栗に、角松は笑い掛けた。
「お前の心配してるような事にはならないさ」
「どうだか。洋介は雅行を逆撫でするにかけてはプロ級だからな」
「康平」
窘めるように発された声に、
尾栗は、今日初めて名で呼ばれたことに気付いた。
じわりと込み上げてくる何かに、尾栗は胸を突かれた。
「……良かった。…お前がちゃんと帰って来てくれてさ」
「すまん、心配させた」
俯く尾栗の背を、角松が労るようにゆるりと撫でる。
そのまま引き寄せて、尾栗の顔を覗き込むように、
角松は己の肩に親友の頭を凭せ掛けた。
「康平、俺は…」
「いいって、何も言うな」
広い背を掻き抱くようにして、尾栗は嘆息する。
構いはしないのだ。
角松の不在を守ることがいかに困難で、菊池を見守ることが、
いかに自分の無力さ加減を思い知らされるものであっても、
自分の存在が辛うじて、まだ二人を繋ぎとめているのであれば、
それでいいのだ。
その任を負わされずにいるほうが、きっと己にとっては辛い事だろう。
やがて、温かい角松の掌が何らかの意思を持って、
背中を這うのを感じ、尾栗は顔を上げた。
篠原と共に特高に捕まり、どんな目に遭わされたのか。
戦争に飲まれていく菊池のそれにも増して、
角松の瞳は、いつの間にか刃のような鋭さを備えていた。
部下の死は、否応なく二人の親友を変えていく。
ならば、自分もまた彼らの眼と同じように、
鋭くなっているのだろうか?
角松の唇が頬に触れ、黙り込む尾栗の、
物言いたげに見詰める瞳を閉じさせるように、瞼へと滑って行った。
上衣を落とした角松の躯を目にして、尾栗は息を飲んだ。
まさか、これほどとは…。
未だ色濃く残る拷問の跡に、顔色を失う。
特高警察になぶり殺しにされたという篠原の躯にも、
恐らく同じものが刻まれていたのだろう。
既に疵は癒えているようだったが、消えずに残る跡の多さに、
この四ヶ月間、角松が耐え抜いた死線の厳しさを尾栗は思い知った。
部下を失い、敵と称する人間達の命を手にかけて、
不安と疑念に苛まれようとも、
この艦の中にいた自分達の、いかに安穏としていたことか…。
この艦を降りて任を全うし、命を落とした立花や、
角松と共に下船した篠原の末路を思えば、
今更ながらによくぞ生きて戻ったと、尾栗は心の内で呟く。
と、不意に、角松が言った。
「康平…お前が艦に残ってくれたことを、俺は感謝している」
労いと謝意を込めて発された言葉に、尾栗は言葉を失った。
「当然だ!そんなのっ…当たり前じゃねぇか!」
疵だらけの広い背に縋り付いて、尾栗は堪えていた涙を流す。
「いっつも、俺にばっかり無茶言いやがって…お前も、雅行も!」
肩口に乗せた尾栗の髪を柔らかく撫でる角松の手の優しさに、
尾栗はみっともなく号泣することを、自分に許した。
角松は振り返って、泣き崩れる尾栗を抱き締め、
涙に濡れる頬を柔らかく指で拭う。
そのまま、労りをもって重ねられる唇の、
思いも寄らぬほどのかさついた感触に、
尾栗は逢えなかった日々の長さを感じた。
「洋介、お前、相変わらずだな。変わってない…」
敢えて変わったとは言わない、尾栗の意図に気付いた角松は、
笑おうとして失敗したかのように、その顔をくしゃりと歪めた。
「そう言ってくれんもの、もうお前だけかもしれないな、康平」
瞳を潤ませたまま呟く尾栗に、角松は苦笑交じりでそう言った。
尾栗は無数の傷を指で辿るようにして、
角松の体温を確かめながら、菊池のことを思った。
言葉少なに尾栗を抱く角松も、同様の思いなのだろう…、
しかしそれは、他でもない尾栗だからこそ解ることだ。
草加や滝と共に角松の命を奪う作戦を容認しながら、
菊池は何を考えていたのだろう…と、尾栗は思い巡らせる。
作戦を認め、角松の命を危険に晒すことに加担しながらも、
菊池は、冷たくなった角松の躯を受け入れることなど、
決して出来ないはずだ。
敵対し合っていても、角松は菊池を、菊池は角松を、
互いに思い遣っていることだけは、確かな事実だ。
ならば、いったいどこで関係が切れてしまったのだろう。
自分と角松の手は繋がっている。
菊池と自分の手も、かろうじてとは言え、未だ繋がっている。
しかし、角松と菊池の袂が分かたれて、
かつてのバランスを失った自分達の関係の、
崩れ行く末路を思って、尾栗は思わず瞑目する。
もう、再び取り戻すことは、永遠に叶わないのだろうか?
三人一緒に笑っていた日々は遠く、
いっぱいに手を伸ばしても、決して届くことはなく、
次第に記憶から薄れて行くのが、尾栗には途方もなく悲しかった。
それは、死んだ者を想う時に似ていて、
本当に自分達は遠くへ来てしまったのだと、
改めて思い知らされる気がした。
角松の部屋を後にして、素知らぬ振りで艦橋に戻ると、
前方を見据えたままの菊池が、声を掛けて来た。
「どこも怪我をしていなかったか?」
独り言のように小さく呟かれたその内容は、
無遠慮だと思わざるを得ない物言いだったが、
それ故に、菊池と尾栗の関係の深さを物語っているともいえた。
「いや、酷い傷跡が無数にあった」
不必要な言葉を極限まで割いた会話は、艦橋から見える嵐の光景と、
時折光る稲妻のもたらす轟音の中、淡々と続けられる。
「そう…か。特高に?」
「ああ」
菊池との会話はそれだけだった。
角松の許に居たことを知りながらも、
少しも尾栗を責めるつもりはないらしい。
やがて、菊池が独り言を言うように、ひっそりと呟く。
「軟禁を…解こうと思う」
「そうか」
その言葉に尾栗は、決して軽々しく安堵などしなかったが、
見失ったかのように感じたものを、その暗闇の中に見出した気がした。
end.
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