第七話 脆弱な小鳥の飛来・前編


栄一郎が、菊池雅行を愛人として囲っていることは、
妻の拓海をはじめ使用人に至るまで、滝家では周知の事実だった。

それを拓海が平然と受け入れているのは、
拓海にもまた、そのような存在があったからである。



「草加さん…いえ、拓海さん、お逢いしたかった」

ソファに座る拓海の足元に、今しがた、そう呟いた青年は、
うずくまるようにして、白い脚に口付けていた。

「ロンドン支店での成績が上々だと、栄一郎が褒めていたぞ」

「ありがとうございます。でも、拓海さんに逢えない日々は、
 私にとって、まるで身を切られるような辛さでした」

拓海の足首に添えられた手は、やがて膝へと辿り着き、
その膝頭に、青年は自らの頬を寄せ、熱を孕んだ溜息をついた。

「お前の居ない間に、私は子供を産んだよ」

「ええ、存じております。
 だからこそ、社長は私に帰国を許されたのでしょう」

「お前はそれを聞いて、どう思ったかを聞かせてくれ」

残酷なはずの微笑みは、信じられないほどに甘やかで優しく、
青年の心に青白い炎を生み出して行く。

「…とても、言葉では言い表せませんが、敢えて端的に申しますと、
 とても苦しく、とても辛い想いを致しました。」

「ふふ…栄一郎は、大変な喜びようだったよ」

与えられる苦痛の言葉に、青年は唇をわななかせた。

「ですが、未だ愛人の存在は、そのままだと伺っております」

「相変わらず、私が冷たく接しているからな」

「それは当然のことかと…愛人を快く思う奥方などおりません」

青年のその言葉に、拓海は忍び嗤いを漏らした。

「ところが、そうでもない」

「は?」

「なぜ、私があれほど嫌がっていた出産をしようと思ったか、
 そして何故ここへ越したか…お前は解るか?」

「いえ、愚かな私には検討がつきません。
 ただただ、お心変わりをされたのかと、異国の空の下で案じ、
 この身を焦がしておりましたので…」

拓海はソファから立ち上がると、消沈して俯く青年の背を踏みつけて、
毒を仕込んだ甘い言葉を投げ掛ける。

「確かに、私は心変わりをした」

「た…拓海さん!?」

「よく聞け、津田。私は愛する人の子供を産んだのだ」



夕刻、栄一郎の帰宅に重ならないよう、
滝邸を後にした一馬は、隣の家の前で歩みを止め、
門の所に設えられた表札を食い入るように見ていた。

その当主の男の名は、つい先程、
一馬のこの世で最も愛する美しい人の口から、
聞かされたものと同じだった。

かの人からは、その名前と住居以外には何も聞かされておらず、
一馬は角松という男が、どのような風貌であるのかすら知らない。

だが、目の前の表札に並ぶ幾つかの名前から、
その男が家庭のある男だということだけは解った。

ただ解せないのは、栄一郎のような富も地位も持った男ではなく、
このようなごく普通の家に住む、しがないサラリーマンの男を、
なにゆえ拓海が選んだのか…ということだ。

一馬もまたサラリーマンと言う立場ではあったが、
仮にも、日本でも屈指の帝国グループに属する、
貿易を主軸とした会社に努める、若きエリートである。

二年間をロンドン支社で過ごし、先頃、帰国の途に着いたのだが、
その間、一馬がヨーロッパ市場で作り出した利益は大変なもので、
それは社の上層部を充分に満足させるほどのものだった。

そんな一馬の勤める会社のトップは、
滝家の御曹司・栄一郎であり、拓海はその妻であったのだが、
同時に、拓海は一馬の心と躯を支配する、神のような存在だったのだ。

総てを投げ出して、拓海に奉仕する一馬にとっては、
その美しい脚で背を踏まれることでさえ、
滅多に得ることの叶わない至福のひと時であり、
ごく稀に…今日のように、脚に触れることを許されるのが関の山だ。

なのに、この家に住まう男は、
あの神々しいまでに美しい拓海の躯を得たばかりか、
その夫の立場にある栄一郎にすら許されなかった、
神の躯に種を蒔き、子を成すという至上の誉れを与えられたのだ。

その上、一馬の神は、その男と、彼との間にもうけた子供を、
心の底から愛しているのだという事が、今日、時折、
浮かびあがった、夢のように甘やかな微笑によって痛感させられた。

それ故に、一馬は自らの神を変じさせた男に対して、
強い嫉妬の念を抱く事となった。

何故、拓海はその男に躯を与え、子を成したのか。

何故、その男は拓海に躯を与えられ、子を成しながらも、
家族も社会的地位も捨てることなく、ここに住んでいられるのか…。

そう思い巡らせて、立ち尽くしたまま動けずにいた一馬は、
不意に後ろから肩を叩かれて、弾かれるようにして振り返った。

そこには、長身の男が立っていた。

安くもないが、決して高いとは思えないスーツが、
隆起する筋肉ゆえに、ぴたりと身に添って、
まるで誂えたかのように見える、類い稀な体躯を持つ男であった。

彼は上方から一馬の顔を覗き込んで、不思議そうな顔をして言う。

「あの、ウチに何か用ですか?」

その瞬間、一馬は、今しがた己の思考を支配していた、
件の人物に対峙しているという事を理解して、緊張に身を竦ませた。

「ええと、新聞の勧誘…じゃ、ないですよね。
 すみません、どなたでしたっけ?」

イギリスで誂えたスーツを身に纏う、エリート然とした一馬に対して、
探りを入れながら、洋介は頭の中のリストをフル回転していたが、
一向に思い出せる気配がなく、諦めて誰何を口にした。

営業には自信があっただけに、思い出せない事が、
多少なりとショックだったのか、その顔は少し曇っている。

しかし、一馬のショックは尋常ではなかった。

ぶっちゃけ、今の心情は、コイツがっ!?…である。

確かに、普通よりは男前だし、普通よりはスタイルも良く、
普通よりは人当たりもいいし笑顔も好ましいものだ。

だが、総合的に見ても、
充分に『普通』のカテゴリー内に納まり得るものであり、
先程、一馬の想像の中に現れた、
太刀打ち出来ない程に魅力的な男とは、似ても似つかない男だった。

「…あの、角松…洋介…さん?」

「ああ、はい。そうですけど…もしかして康平のお友達ですか?」

「…いえ」

「じゃあ、如月のほうでしたか!
 表札が角松姓だったから、混乱されたんですよね?
 あ、ウチの克己が、いつもお世話になってます。
 どうぞ、お入りになって下さい」

「わ…わあっ! ちょっと、角松さん!」

見付かってからも、興味が先んじてぐずぐずしていた為に、
すっかり逃げ道を失ってしまった一馬は、
洋介の馬鹿力に背を押され、図らずも角松家の敷居を跨ぐ事となった。



帰宅してすぐ風呂に入る習性のある洋介が、湯船で鼻歌を歌う頃、
一馬はムリヤリ通された角松家のリビングで、驚きの余り呆けていた。

「き…如月、君、何でここに居るんだ?」

「それは俺のセリフだと思いますけどね、津田先輩」

カラリと氷が涼しい音を立てる、水出しの緑茶を差し出しながら、
娘を抱きかかえた克己が、呆れたように答えた。

「ぼ…僕は、たまたま、ここの隣がウチの社長の家だから…」

「ああ、アンタ、滝さんの会社に就職したんですか」

「如月は…もしかして、結婚したのか?」

「ああ、はい。まぁ、しましたね、一度」

「角松さんが旦那さんなのか?」

「ああ、まぁ、そうですね、一応」

妙に間の開く返事を返す克己に、特に不審を抱くことなく、
一馬は混乱しそうな頭の中の人間関係を、必死で整理していた。

「そ…そうなんだ。角松さん…如月の旦那さんなんだ…。
 ………偶然って怖いもんだね」

「何ですか? その妙な言い回しは」

「あ、いや…その、別に何でもないよ」

少し蒼褪めて、そう呟く一馬を強く言及することもなく、
克己は話題を変えて、話を続けた。

「それにしても、あの社長さんはまだ帰ってないでしょう。
 何かお使いでも頼まれたんですか?」

「いや、用があったのは、奥様のほうで…」

「…草加に?」

途端に顔色を変えた克己に驚いて、一馬は声を上ずらせた。

「し…知ってるのかい?」

「そりゃ、お隣さんですからねぇ。この前の日曜日なんか、
 角松のせいで、あの人と一緒にプールに行く羽目になったし…」

克己の口から漏れた驚愕の事実に、一馬は目を剥いて叫んだ。

「拓海さんと一緒にプール!? 角松さんと? じゃ、滝社長も?」

「ちょっと、待て。アンタ、社長の奥様のことを、
 下の名前で呼んでるんですか? ちょっと、おかしかないか?」

思わず口を突いて出た言葉を、鋭く指摘する高校時代の後輩に、
一馬は、無様なくらいに思いっきりたじろいだ。

「あ〜…えっと。僕…あの人の、ファンって言うか…」

「相変わらず趣味が悪いですね、津田先輩」

「如月は、たく…いや、奥様とは仲が悪いの?」

「いいことは無いですね。むしろ、あんまり関わりたくない」

苦虫を噛んだみたいに顔を歪める克己に、
一馬は、罪悪感を孕む気まずい思いを抱いた。

「…それは、やっぱり、旦那さんのことが原因なのかい?」

「……津田先輩、アンタ、どこまで知ってるんだ?」

「如月こそ…」

克己はしばらく黙っていたが、やがて意味深な言葉を吐いた。

「草加の子供の父親を知っている…と言えば解るのか?」

「え…じゃ、全部知ってるのか!?」

驚愕を露わにする一馬に対して、
克己は不信感をぶちまけるように、立て続けにまくし立てる。

「ちょっと待ってくれ、津田先輩。
 そこまで知ってるとなると、アンタこそ草加の何なんだよ?」

「…それは、言えない。たとえ殺されたって言えないよ」

いやにナチュラルに出て来た物騒な例えに、克己は首を傾げる。

一馬の性格から見て、そんな言葉を容易に口にするのはおかしい。

可能性として考えられるものを、頭の中に羅列して行くと、
違和感の中にチラチラと見え隠れしていた真実に、克己は目を細めた。

「………下僕?」

「な…っ! 何で解ったんだ!?」

一馬の顔は蒼白だった。

今まで、栄一郎以外には誰にも悟られた事のない真実を、
ぴたりと言い当てられて、一馬の動揺は頂点に達する。

「いや、ただの勘だけど。でも、俺の勘は結構当たりますよ」

人の悪い笑みを浮かべてそう言う克己に、
一馬は恥も外聞も、先輩としての矜持をも捨てて懇願した。

「き…如月! 今のは、聞かなかった事にしてくれ!」

「いや、無理だし」

しかし、返される応えは、にべもない。

「頼む! この通りだ! 僕の出来ることなら何でもするから!」

「じゃ、草加の情報、洗いざらい吐いて貰いましょうか」

がばっと頭を下げた一馬に、
その頭上から、克己の容赦のない言葉が被せられる。

「えええっ!?」

「心配いりませんよ、先輩から聞いたなんて、
 俺、絶対に言いませんから。さ、どうします?」

背に腹は代えられない、究極の四面楚歌の状況で、
一馬は心の中、彼の神に懺悔した。


第七話 end.


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