第五話 安息日のお誘い・前編
「……………」
拓海は、まだすやすやと眠る我が子を胸に抱いて立っていた。
「……………」
雅行は、最新モードの服を着せた愛息の手を引いて立っていた。
「あ〜、ええと、子供の遊び相手を…と思いまして…」
「そうそう! 大勢のほうが楽しいもんな!」
「……アンタたち夫婦は、もうちょっと後先考えたらどうですか?」
引き攣った笑顔を浮かべる角松夫妻、つまり、
洋介と康平の背に投げ掛けられる克己の声は平坦だった。
そもそも、鈍感な洋介は全く判っていなかったが、
仮にも雅行は滝氏の愛人である。
本妻の拓海と同席させられて、心中穏やかであるはずもないが、
もし、このことを後から聞いたら、事態はもっとややこしくなる。
しかも、このプール行きを立案したのは、
他でもない滝氏の細君である拓海自身なのだ。
人の旦那にちょっかい出した報復だって、少しは必要である。
先日の夜、会社から帰宅した洋介に、
困り顔で昼間の出来事を話された康平は、
しばらく思案したものの、背に腹は代えられないと判断した。
こうして、予想外にも日曜日のプールは、
五人の大人と四人の子供という大人数で行くこととなった。
「じゃ、ウチの車は俺が運転するからさ、
洋介は雅行の車を運転して行ってくれよな」
「俺、外車なんか、あんまり乗ったことねぇよ。
なあ、なんで雅行に運転して貰っちゃいけねぇんだ?」
「いいから、アンタは尾栗さんの言う通りにしてろ」
「洋介、さっきも言ったけど、
草加が何と言おうと、雅行を助手席に乗せるんだぞ?」
「お…おう」
チャイルドシートが4つ必要なこの一行には、
どうしても二台の車が必要だった。
康平は最初、雅行と拓海を分けて車に乗せようと考えていたが、
それには克己が大反対だった。
「いいですか、尾栗さん。そうなると、
どちらに角松を乗せるかで必ずいさかいが起こります。
尾栗さんはきっと、菊池さんを自分と一緒に乗せて、
角松と俺を草加さんと一緒に乗せるつもりでしょうが、甘いですよ。
それじゃ、尾栗さんをないがしろにしたとか何とか理由を付けて、
確実に菊池さんがキレます。
そうなると、尾栗さんは絶対に隣からハンドル奪われますね。
まだ死にたくないでしょう?」
「うう…じゃあ、どうすりゃいいんだよっ」
「この際です。角松の運転する車に、あの二人を一緒に乗せましょう。
幸いあの二人は、角松の前ではネコを被っていたいタイプなので、
表面上は大人しくしてるでしょう。
少なくとも、大惨事だけは避けられます。
それと、そうしたほうが絶対、俺達の安全が確保できます」
「え〜!? じゃあ、洋介は人身御供かよ?」
「だいたい、角松があんな約束して帰って来るから、
こうもややこしい事になったんです。自業自得ですよ。」
「…如月、洋介に冷たい」
「いや、アンタが温すぎるだけです」
そう言って、克己は康平の前で、少し大袈裟な溜息をつく。
車に乗るだけでこうなのだから、
目的地までの道程は、果てしなく遠そうだった。
「いい天気でよかったな!」
「…焼けそうで嫌だ」
低すぎるテンションを隠しもしない雅行の声は、陰鬱だった。
隣で仏頂面を晒す幼馴染みを、なんとか盛り上げようと、
洋介が冷汗をかきながら、話題を変え、無駄な努力を払う。
「雅行は昔から色が白かったから、焼けると赤くなってたっけな!」
「そうなんですか? 奇遇ですね、私もそうでした」
だが、乗ってきたのは、
先程しぶしぶ後部座席に座った、隣家の細君だった。
「ああ、奥さんも凄く色白ですよね。旦那さんが羨ましいなぁ」
「そんなぁ…プールで幾らでも御覧になって下さい。
それと、角松さん、奥さんじゃなくて拓海です、た・く・み」
「ははは、洋介はよそ様の奥さんを、
下の名前で呼ぶような失礼な男じゃないですよ?」
だんまりを決め込んでいるとばかり思っていた幼馴染みが、
突然、会話に参加してきて、洋介は面食らった。
その間に、拓海と雅行の会話は、暗い炎を宿して続けられる。
「でも、菊池さんだってお名前で呼ばれてるじゃありませんか」
「俺達は幼馴染みですから」
「そう…ですね。私ひとり、場違いだったのかもしれません…」
突き放すような雅行の言葉に、なよやかな素振りの拓海が、
沈んだ声で、いささか自嘲気味な言葉を口にした。
わざとらしい演技に雅行は、美しい顔に鼻白んだ表情を浮かべる。
「そ…そんなことありませんよ、奥さん!」
しかし、慌てたのは洋介だった。
プールに連れて行くと約束した折に、
拓海が見せた、嬉しそうに綻ぶ笑顔が脳裏をかすめ、
罪悪感でズキリと胸に痛みが走る。
「でも、皆様お子様連れで、どなたも奥様ばかりなのに、
私ひとりだけ、奥さんって呼ばれるのは…」
「わかりました! じゃあ、拓海さんってお呼びしますから」
「わあ! 嬉しい、角松さん!
その内、ぜひ拓海って呼んで下さいねっ」
呼ばねーよ!!…と、心の中で叫びながら、雅行は顔を引き攣らせる。
夫と一緒に財界のパーティに出て、各界の有力者と話す時ですら、
ここまで拓海が愛想を振りまく事など無いと知っている雅行は、
拓海の洋介に対する執着の深さに、思わず舌打ちする。
「ああ、そうだ、角松さん。海洋は子供達の中で一番小さいので、
プールに入る時は、抱いて入ってやって下さいませんか?」
バックミラーに写った人妻が、運転席の洋介に向かって、
小首を傾げてそう伺いを立てる。
だが、洋介の隣に座る雅行が、それを許す筈もない。
「海洋くんくらいの頃は、まだまだお母様にべったりな時期ですよ?
お父様ならいざしらず、よそのオジサンに抱っこされたら、
泣いてしまって大変なんじゃないですか?」
「いいえ、うちの子は角松さんにとてもよく懐いてますので…。
…子供なりに何か親近感を感じているのかもしれませんねぇ」
「初めてプールに入る子供は皆、多少なりと不安を感じるものです。
子供にとって、お母様の胸で抱かれる安心感は絶大ですよ」
「まあ、それは菊池さんの経験談ですか?
だったら、雅洋くんはとてもお母様が大好きな、
心優しい坊ちゃまなんですね」
なんとか、洋介に拓海の一人息子を抱かせるまいと、
躍起になる雅行に対して、
お前の息子は母親にべったりのマザコンなんじゃねーの?と、
いうニュアンスを含ませて、拓海が応える。
鼻につく上品さで、毒を振りまく拓海に、
雅行は額に血管を浮き上がらせて、怒りに震えた。
しばらくして、高速道路の料金所に差し掛かった。
左ハンドルの車ゆえに、助手席の窓を開けた雅行が、洋介に言う。
「洋介、俺が出すから」
「いいよ、雅行。俺が出すって」
財布を持った雅行の腕を、洋介が掴み、
二人は向かい合って、互いの立場を思い遣って主張し合う。
「でも、運転して貰ってるんだから…」
「いいって、誘ったのはもともとウチなんだし、
第一、この車だって出して貰ってるじゃないか」
と、後続車の迷惑も顧みずに、しつこく二人がやり合っていると、
後部座席から開いた助手席の窓へするりと白い手が差し出された。
「係員さん、こちらで決済を」
拓海の手からカードを受け取った、道路○団の職員は、
そのカードの色に、ひっと喉を詰まらせた。
それは、限られたセレブだけが持つことの許される、
米国急行社(笑)の黒いカードだった。
「後ろのお車の決済も、一緒にお願い致します」
「ちょっと、奥さ…いや、拓海さん!」
「角松さん、お誘いしたのは私ですから」
先程、雅行に言った洋介の言葉を、
言質に取られたのだという事は明白だった。
透明感のある笑顔で、にっこりと柔らかく微笑まれて、
洋介は困ったように頭を掻いていたが、
ね?…と首を傾げる拓海につられて、ほわっと笑みを返す。
洋介との確実に距離を縮めて行く、拓海の小憎らしいやり方に、
雅行はギリギリと奥歯を噛み締め、
阿呆面を晒す幼馴染みの頭を、ペシッと音を立ててはたいた。
しかし、決済を終えたカードを受け取る拓海の顔は、
嫌味なくらいに涼しげで、バックミラーに映る姿に寸分の隙も無い。
そして、窓から乗り出し、後続のマイカーに向って、
決済を終えている旨を伝える洋介の目を盗み、
雅行と拓海は、激しく火花を散らして睨み合っていた。
こうしたやり取りが、車内で絶え間なく続けられたものの、
克己の当初の読み通り、
どうにかこうにか、明らさまないさかいに発展することなく、
一行は無事、目的地に到着したのだった。
「じゃあ、雅洋と洋平は、俺と一緒に着替えような」
「悪いな、洋介。済まないが頼む」
「おう、任しとけ。雅洋も洋平もママと離れても平気だよな?」
うん!…と、元気良く頷く幼児の頭を、洋介は力強く撫でてやると、
心配そうな様子の雅行に、大丈夫だと頷いて見せてから、
二人の子供と共に更衣室の入口に向かった。
複雑な面持ちでそれを見送る雅行に、康平が声を掛ける。
「心配しなくても大丈夫だよ、雅行。
洋介のヤツ、あれで結構、子供の扱いが上手いんだ」
「ああ、いや…別に心配はしてない」
「やっぱり、アレかねぇ…血が呼ぶのかなぁ」
「いったい何の話だ?」
「べっつに〜?」
途端に声を固くする幼馴染みの様子に、康平は肩を竦めてみせる。
強情な雅行は、愛息の父親が洋介だろうと、
何度、康平に指摘されても、頑なに首を振り続けていた。
康平は素直に話して欲しいと願っていたが、
雅行のプライドがそれを許さない事も、重々承知している。
しかし、万一、話す気になってたとしても、
それを自ら口に出せる雅行ではないという事も、よく解っていた。
だから、時々、無駄と解っていても、こうして口にするのだった。
「ところで、前から思っていたのですけれど、
如月さんは角松さんとどういった御関係でいらっしゃるのですか?」
更衣室で子供の着替えをさせていた拓海が、
同様に娘の世話に勤しむ克己に対して、不躾な質問をして来た。
「兄妹ですよ。私が早くに連れ合いを亡くしたもので、
兄夫婦の所で世話になっているんです。それが、何か?」
日頃から、対外的に用意してあった肩書きを、
慣れた様子ですらすらと口にする克己の様子には、
不審な点など欠片も無かったが、
それすら承知しているように、拓海は言葉を続けた。
「まあ、それはお気の毒に。
よろしければ、どなたか良い方を御紹介致しましょうか?
幸い、主人は顔が広いもので、
素敵な方をたくさん存じておりますよ」
「そんな素敵な方々が、子連れの未亡人を相手になさるとは、
とても思えませんので、お気持ちだけで結構です」
「まあ、ご謙遜を。
角松さんの妹さんなら、どなたにも引けを取ったりしませんよ」
「妹と申しましても、半分しか血が繋がっておりませんので。
兄夫婦は優しいので、こんな妹でも大事にしてくれてましてね。
いつまでも気兼ねなく居たらいいと言ってくれます」
「そうですか。でも、そうは仰っていても…ねぇ?
いえ…失礼を。少し立ち入り過ぎました」
少しじゃねーよ!!と突っ込みたい人間が、
ここには少なくとも三人は居たが、
皆、拓海とは出来るだけ関わりたくないのか、敢えて無視した。
それにしても、角松家の結束を内部から崩そうとするのが、
ありありと解るだけに、克己にしても康平にしても、
拓海の言葉のひとつひとつに、薄ら寒いものを感じていた。
第五話 end.
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